フローレンス・ナイチンゲールと疾病における「細菌理論」

フローレンス・ナイチンゲールは細菌理論を受け入れなかったとしばしば言及されてきた。 しかも病気の多くが微生物によって拡がっていくという発見がなされてからも、ずっとそうであったと。 細菌に対する態度には矛盾があったと。客観的に事実関係が検証されるようになり、「フローレンス・ナイチンゲール、復讐の天使」 の著者であるヒュー・スモールは彼の著作の中で、これらいわれのない主張が事実に反し、根拠のないものであることを初めて明らかにした。

真実を明らかにするのには、わずかな調査で十分である。繰り返し彼女は手紙や執筆の中で、病院で使用する器具を殺菌処理をするよう 強い調子で言い渡している。いかに多くの評論家たちがこの事実を見事に無視してきたかは驚きである。フローレンス・ナイチンゲール、 復讐の天使」の中で著者はいくつか例を挙げて説明している。歴史家たちが彼女が近代的な思想に抵抗していたという神話を創作してきたと。 (たとえば彼女は殺菌ミルクに反対していた、とか、ジョン・サイモンの近代的見識に反対の立場をとっていたらしい、とか。) この件に関して、説明を加えるならば、歴史家たちはもっぱら医療に携わる人々の発言をそのまま鵜呑みにしており、彼等はナイチンゲールが 予防医学を理解していない医師たちを辛辣に批判していたことに疑いの念を向けたがっていたからである。 「フローレンス・ナイチンゲール、復讐の天使」はいかにこの主題が無視されてきたかを示しており、 その結果、今日にいたっても不必要な死を目のあたりにするのである。(第三世界での繰り返される伝染病の流行や癌、世界中どこでもみられる院内感染など。)

ここではナイチンゲールが細菌理論に対して示した洞察力の例を他にも幾つか挙げてみよう。 きわめて一般的なものは、彼女は死亡する1910年のその時まで「決して」細菌理論を受け入れなかった、というものである。 彼女を批判する者は好んで「決して」という言葉を用いたものである。というのは、彼等にとっては大きな問題があったのである。 すなわち、彼女と同時代の著名な医学者たちが、パスツール、リスターといった1820年代のパイオニアたちの業績をごくゆっくりと、 受け入れていたからである。また、誰がこの惑わせる比較対照をいつ、どのように、受け入れるのか議論を始めるのもごくゆっくりであった。
このようにして、フローレンス・ナイチンゲールは、聖トマス病院のE.M.マックインズが述べるような「決して細菌が病気を引き起こすこと など信じなかった」人物と言われるようになった。しかし、このような奇怪な主張が生き延びるだけの証拠など、どこにも無かった。そして、 その歪曲された事柄が正確なものであるかのような印象を与える出版物が一般大衆向けの本としてではなく、もっと真面目なお固い書物として 存在している。(もっとも、リットン・ストレイチーの素人評論よりかはましだった。彼はナイチンゲールが感染自体を信じていなかったと主張した。)

クエイン医学辞典の、ある章が1870年後期に書かれていた。1882年に初版本が出版され、1894年に改訂版が出ている。ナイチンゲールはその中で、 細菌に対する予防措置(化学薬品の使い方)の重要性をとりわけ勧告した。「看護婦が手を洗う時は塩素消毒液を使用すべきで、 疑わしいケースを扱う場合や包帯を巻く時などはとりわけそうである。手の皮膚を犠牲にすれば細菌を死滅させることができるかもしれないからだ。 塩素消毒が、もし、表皮にダメージをあたえるのなら、細菌に対しても同様のはずである。」彼女が無菌法を知った時、 (化学薬品すら殺してしまう細菌は別として)彼女はその熱烈な信奉者となった。この方法はこれまでの殺菌法を過去のものとした。 フィンランドのヘルシンキ外科病院で外科婦長をしていたエレン・エクブロムは1896年にその病院で行っている無菌法について ナイチンゲールと話しをしている。その時の内容には、煮沸されて吸い取り紙の中に収められた消毒布が看護婦の手を触れずに 広げられるということや、摂氏120度まで熱せられたカテーテルの話しなども含まれる。「クエイン医学辞典を書く時にこのことを 知っていたら。」と後にナイチンゲールは語っている。この辞典の中で彼女はカテーテルの消毒法を石炭酸を用いて殺菌すること、と勧告していたからだった。

1896年という年は「殺菌」から「無菌」という考え方へ転換した年である、といったら、これは時間がかかり過ぎている、 と言うべきだろうか。もし、医療に携わる者たちが抱いている「容認できる考え」とは何かを知っているのなら、時間のかかり過ぎ、 とは言えないだろう。1896年という年は「容認できる考え」へ導いていくために、「無菌」というアイデアを最初に実践するには良い 時期ではなかった。というのは、開業医のほとんどが保守的であったからだ。包帯類の蒸気消毒は1886年にドイツにおいて初めて行われた。 手術用のゴム手袋の消毒は1890年になってからである。しかしながら、私の父は1933年、ロンドンのイーストエンドの若き外科医だった時、 母校の先輩たちの助手をしていて、その時に彼等が、ほぼ半世紀がたっていたにもかかわらず、殺菌法で腹部の手術を行っているのを目にしている。 また、手や消毒布や手術器具を同じ消毒水で洗っていたのだった。父は当時の体験を1960年の英国医学ジャーナルに掲載されたA.J.コーゼンス医師の追悼文の中で書いている。

ナイチンゲールによるクエイン医学辞典の記述の中には、医師たちが細菌理論を誤用していることへの批判も書かれている。「 ・・・"病原菌"についての綱領は、起こり得る感染を考慮するようになる、という意味において教えられるべきで、 清潔な看護の原則として教えられるべきではない。」彼女はジョン・サイモンとの論争を再開している。彼は英国の軍医長であり、 1858年に麻疹としょう紅熱による高い死亡率は避けることができない、と主張していた。彼女は公然と彼の見解を非難した。 そして彼女が正しいことが証明された。彼女は医療現場に適した人物というのは、それまでの医療上のキァリアを捨て去ることの できない公衆衛生士を信用しない人だと結論づけた。彼女の持つ科学的見解に疑いの目を向ける風潮は、それ以後、政府が この賢明なる洞察を無視することの原因となった。

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